憎しみの連鎖

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zoom RSS 搾取する者と搾取される者 〜金持ちの論理〜@

<<   作成日時 : 2016/05/31 03:52   >>

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画像:http://vannevar.blogspot.jp/2009_08_01_archive.html

はじめに
 
 皆さん、こんにちは。上記した写真にある名前「JOHN GALT」って誰?って思っている方がいらっしゃると思います。当記事の争点は、この「JOHN GALT」という人物を描いている小説『肩をすくめるアトラス』に集約しますが、それについては後述します。
 本当は、毎日のニュースを取り上げては深く掘り下げ、「あーでもない、こーでもない」と伝えていきたいところなのですが、思考力の土台がないとプロパガンダされること必至なので、はじめに自分を知るためとして、自分のポジション、自分の考えをしる手がかりとしての記事を書こうと思います。求めるところは「能動的な分析」であります。そのために当ブログを利用してもらえればと思います。常識という名の妄信、「知識人がそう言っているからそうに違いない」は危険です。彼ら知識人だって人間ですから、いろいろな利害関係の中で生きていることは明白です。何らかの思惑があって他人を心理誘導するはずなのです。彼らだけではないですよ、これは万人に共通しています。
 では始めましょうか。

「Occupy Wall Street (ウォール街を占拠せよ)」

 2011年9月17日、マンハッタンのウォール街にて始まった、経済格差に対する大規模な抗議運動です。知っている方もいらっしゃいますよね。その抗議運動のスローガンとなったのが、この「Occupy Wall Street (ウォール街を占拠せよ)」でした。そして、彼らはこう言い放ったのです。「We are the 99%(私たちは99%)」。

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画像:http://vancouver.mediacoop.ca/events/9019

 99%?いったい何のことやら?次のデータを見ていただければ一目瞭然です。

〜アメリカの上位1%の人間〜
●1980年は全収入の9.1%を稼いだが、2007年には18.8%に増加した。
●1979年〜2007年の間に、平均収入が275パーセント増加した。
●1979年に対して、2007年は収入が700000ドル以上増加した。
●2007年、総資産の34.6%所有している。

 一見、この運動が「富裕層に対する単なるひがみ」で片付けられてしまいそうですが、そこで終わってしまうと元も子もないのです。それを「熟慮した考え」と呼びませんし、それで終えてしまったら「思考停止状態に陥った」と言ってもいいかもしれません。私が皆さんに望むことは、上記したことと真逆のこと、「熟慮し、思考を停止させない」こと。他人の意見に流されず、あいまいな根拠で解答せず、自分自身で分析し、確固たる結果を導くことです。その格好の材料と言っていいのがアイン・ランドの小説『肩をすくめるアトラス』なのです。この小説を材料として、「Occupy Wall Street (ウォール街を占拠せよ)」を考えてみましょう。

『肩をすくめるアトラス』

 この作品は、ランドの4作目の小説です。内容を一言で言うとすれば、「リバタリアンが理論武装した本」でしょうか。リバタリアンについては、次回の記事で記します。
 ランドは自らの思想を「客観主義(Objectivism) 」と呼びましたが、これは、
「自己の幸福の追求が人生の正しい目的であり、生産的な達成が人間にとって最も崇高な活動であり、理性が人間にとって唯一の絶対的基準である」(Wikipedia、アイン・ランド)
というものです。 ランドはその作品の中で、先述した「生産的な」人間であり、強大な力をもつ産業家たちを英雄視しています。そして彼ら産業家たちを危険視し、様々な規制を制定しては攻撃する国家権力に対して警鐘を鳴らし、そのせいで世界が破滅に向うことを表現しています。作品の中では、様々な場面で本記事のタイトルにした「搾取する者と搾取される者」との論争が取り上げられていますが、この論争を通じて皆さんにいろいろと考えてほしいのです。人というのは、物事に対して単純に(根拠が乏しい)答えを主張するものです。いちいち哲学的に物事を考えたりしませんからね。別にそれが「悪」だと言うつもりはありませんが、人間として生まれ、「思考」というものを与えられたのであれば、社会的存在として意見を主張し、生きていくのであれば、より高みを目指したほうがいいと思うのです。「なぜそれがいいと思うの?」と思考することもまたしかりです。ニーチェは「生きることに意味はない」と考えましたが、それでも「その意味のない中で、意味ある生き方を模索する」ことを伝えました。その「意味ある生き方」を実現するために、いろいろと考えませんか?
 搾取される者の論理として、次の内容を『肩をすくめるアトラス――第二部』から引用しますが、その場面における登場人物はハンク・リアーデンと判事たちです。つまりは裁判でのやりとりなのですが、物語の背景を少し説明します。

物語の背景

 ハンク・リアーデンは「リアーデン・スチール」創業者社長です。お金を稼ぐことを美徳指標とし、それを包み隠さず公言しています。不平ばかりこぼして、自分では何もしないゴロツキを非難し、逆に、最高の美徳のために努力する人間を賞賛します。そんな彼は、世間では高慢であり、身勝手であり、目的に突き進むためには何でもする強欲な人間と見られています。
 リアーデンは、メタルの売却を制限する規則を破ったために訴えられ、上記した裁判となるのです。そんな彼を、弟は次のように非難しました。

 
「ビジネスマンは金儲けのために国家的危機を利用している。そして公益を守る規制を破る――私腹を肥やすためにね。逼迫した物資不足に乗じて闇取引で不当ば暴利をむさぼり、貧しい人びとの正当な分けまえをうばって金持ちになる。単なる身勝手な強欲だけで、冷酷で、貪欲で、なりふりかまわない反社会的な手段を追求する」P221-222


 また、新聞はこうです。

 
「国が抱えている問題の原因は、(中略)裕福な産業資本家の身勝手な強欲だと吠えたてていた。この国の家庭での食糧の欠乏、室内温度の低下、屋根のひびわれた責任があるのはハンク・リアーデンのような男たちである。規制を破り政府の計画を妨げた男たちがいなければ、とうの昔に繁栄がもたらされていたであろう。ハンク・リアーデンのような男は利益目的でなければ何もしない、と」P236


 まさに納得と私は思いました。私自身は反リバタリアンなので、イコール反『肩をすくめるアトラス』です。しかし、彼らの意見も堂々たるものであり、論理性があります。これを論破するのは至難の業ですが、次回の記事では、現代の政治哲学者マイケル・サンデルを登場させ、彼がどのようにこのような事象に反論するかを取り上げたいと思います。今回は、まず裁判でのディベートを見ていろいろと考えていただければと思います。
 以下はリアーデンと判事たちとのやりとりです。引用します。

<検察役を務める判事の一人が起訴状を読み上げた。

 「それでは被告は抗弁をおこなってよろしい」

彼は宣言した。木の壇に向かい、単調で不思議と明瞭な声で、ハンク・リアーデンは答えた。

 「抗弁はありません」
 
 「あなたは――」

判事は口ごもった。これほどすんなりと終わるとは予想していなかったからだ。
 
 「あなたはこの法廷の決定に身をゆだねるというのですか?」
 
 「この法廷が私を裁く権利を認めない」
 
 「何ですと?」
 
 「この法廷が私を裁く権利を認めない」

 「しかしリアーデンさん、ここはまさにこうした種類の犯罪を審理するために法律で定められた法廷です」

 「自分の行為が犯罪であると認識していない」

 「しかしあなたはメタルの売却を制限する規則を破ったと認めています」
 
 「きみたちが私のメタルの売却を制限する権利を認めない」

 「あなたの承認は求められていないと指摘されなければならないのですか?」

 「いや。私は十分にそれを意識しているし、それにしたがって行動している」(中略)

 「あなたは法律に従うことを拒否しているという意味ですか?」

判事がたずねた。

 「いや。私は法律に従っている――文字どおり。きみたちの法律は私の人生、仕事、財産が私の同意なく処分されてよいと定めている。よかろう。きみたちはいまその件について私の参加なく私を処分してよろしい。私は自分を弁護しようがないところで自分を弁護する役を演じるつもりはないし、正義の法廷を相手にしているといった幻想を作るつもりもない」

 「しかし、リアーデンさん、法律でははっきりと、あなたはこの件についてあなたの側の立場を表明し、あなた自身を弁護する機会を与えられると定めているのです」

 「被告人は裁判において、判事によって認識された客観的な正義の原則、不可侵であり、発動可能な彼の権利を尊重する原則が存在するときのみ、自分自身を弁護することができる。きみたちがいま私を裁こうとしている法律は、原則など存在せず、私には権利がなく、そちらの意のままに私を処分してもよいと定めている。よかろう。やりなさい」

 「リアーデンさん、あなたが非難されている法律はもっとも崇高な原則――公共善の原則にもとづいているのです」

 「公共とは誰のことか?それが掲げる善とは何なのか?かつて『善』が道徳的価値の規範によって定義される概念であり、他人の権利を侵害してみずからの益を求める権利は誰にもないと考えられていた時代があった。いま私の同胞がかれら自身の益だとみなすことのためなら何でも、好きなように私を犠牲にしてもよいと考えられているなら、私の財産をたんに必要だからという理由でかれらが押収してもよいと考えられているなら――さて、盗人もそうだ。違いはただひとつ。盗人は自分の行為を認めてくれと私に頼みはしない」(中略)

 「我々はあなたが」

判事がたずねた。

 「あなた自身の利益を公共の利益の上においていると理解してよろしいのかな?」

 「私はそうした問いはおこりえないと考えている――人食いの社会にいるのでなければ」

 「ど……どういう意味かな?」

 「自分の手で稼いでもいないものを要求せず、人身御供を行なわない人びとの間で利益の衝突はおこらないと私は考えている」

 「公があなたの利益を削ることが必要だとみなしたとしても、あなたはその権利を認めないということですか?」

 「おや、いいえ、認めます。世間はいつでも望むときに私の利益を削る――私の製品を購入しないことで」(中略)
 
最年長の判事がテーブル越しに身を乗り出し、慇懃にあざ笑うような声で言った。

 「リアーデンさん、あなたはなにか原則のために戦っているような口のききかたをされているが、実際に戦っているのはご自分の財産のためだけでしょう?」

 「ええ、勿論。私は自分の財産のために戦っている。それが象徴する原則をご存じかな?」

 「自由の闘士を気取っておられるが、あなたが求めているのは金を稼ぐ自由だけだ」

 「ええ、勿論。私がほしいのは金を稼ぐ自由だけだ。その自由が含意するものをご存じかな?」

 「よもや、リアーデンさん、あなたはご自分の態度を誤解されたくはないでしょう。あなたはご自分が、同胞の福祉には何の関心もなく自分の利益のためだけに働く社会的良心の欠落した人間だという一般的な見解に裏づけを与えたくはないでしょう」

 「私は自分の利益のためだけに働く。私はそれを稼いでいる」(中略)いや、自分の立場を誤解されたくはない。それについて喜んで公式に発言しよう。新聞で私について書かれたすべての事実に――評価ではなく事実に、私は全面的に同意する。私は自分の利益のためだけに働く。それは私の製品を必要とし、それを好んで購入する人びと、購入できる顧客に売って得る利益だ。私が顧客に得をさせるために損失を覚悟で生産することはないし、顧客が私に儲けさせようと損をしてまで購入することもない。私は顧客のために自分の利益を犠牲にはしないし、私のために顧客が自分の利益を犠牲にすることもない。われわれは対等な立場で、合意によって、相互利益のために取引をする。こうして稼いだ1セント1セントを私は誇りに思う。私は金持ちであり、全財産を誇りに思う。私は汗を流して、自由な交換のなかで、取引に関わる全員との自主的な合意を通じて金を稼いだ。それは働き始めたときには私の雇用主との、いまは私の下で働く者たちと、私の製品を買う人びととの自主的な合意だった。きみたちが堂々とたずねようとしない質問にすべて答えよう。私は従業員の仕事の価値以上の給料を払いたいと思っているだろうか?思っていない。損失を出して売ったりただで与えたりしたいと思っているだろうか?思っていない。これが悪いことだというなら、きみたちの基準に従って、私を好きなように始末しなさい。これは私の基準だ。私は、すべて正直な人間がそうあるべく自分で生計をたてている。自分が生きているという事実と、自分の生活を支えるために働かなければならないという事実を罪として受け入れることを私は拒否する。そうして働くことができる、人よりうまくできるという事実を罪として受け入れることを、私は拒否する。自分がたいていの人間よりもそれをうまくできるという事実――私の仕事に隣人の仕事よりも高い価値があり、より大勢の人間がすすんで代金を払おうとするという事実を罪として受け入れることを私は拒否する。おのれの能力と、成功と、財産について詫びることを私は拒否する。これが悪だというなら、せいぜいそうとして利用したまえ。公益に有害だと社会が言うなら社会に私を破壊させたまえ。これは私の規範であり――別の規範を受け入れるつもりはない。きみたちが望むべくもないほどの善を私は同胞にもたらしたということもできる。だが言うまい。私は他人にもたらした利益によって自分が生きていく権利の承認を求めはしないし、他人への利益をかれらが私の財産を押収したり私の人生を破壊したりする正当な理由としても認めないからだ。他人への利益が自分の仕事の目的だとは言わないでおこう。私自身の利益が私の目的だったし、自分の利益を放棄する人間を私は軽蔑するからだ。きみたちが公益に役立っておらず、人間を生贄として誰かが利益を得ることはなく、きみたちが一人の権利を侵害するときはすべての人間の権利を侵害し、権利のない生き物の集団である公は破滅の道をたどる運命にあるということもできる。餌食の尽きたすべてのたかり屋と同じく、きみたちには普遍的な荒廃の結果しかありえないということもできる。(中略)私が挑戦しているのは特定の政策ではなく、きみたちの道徳的前提なのだ。かりに人間が人間を犠牲にすることによって善を成しとげられるというのが真実であり、それで私の血を代償として生きのびようとする生きもののためにおのれを生贄にすることを求められたならば、もしも自分の利益とは関係のない、それ以上の、それに反する社会の利益に仕えることを求められたならば――私はそれを拒否する。もっとも軽蔑すべき悪として私はそれを拒否し、全力でそれと戦う。(中略)誤解のないようにしておこう。いま、公の善が犠牲者を必要とするというのがみずから公共と名乗る同胞たちの信条ならば、聞くがいい。公共の善なんかないほうがましだ!そんなものに肩入れするのはまっぴらごめんだ!」P237-245>
 
続きは次回で。

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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
肩をすくめるアトラス、面白そうな本ですね。今後もオススメな本などの情報をお願いしますm(_ _)m
assassins
2016/06/07 09:00
まだ少し時間あるので。
もちろん沢山読書してるのは以前からわかってました。赤い盾も難解ですが少しずつ読みました(*^^*)
LUNA
2016/06/28 07:55
リアーデンは法に触れたから裁判となり、またその言い分は理屈っぽい、屁理屈みたいのもありますけど、いざ言われるとまともな話のようにも聞こえたりします。ただ稼ぐのに違法があったから問題で。リアーデンは自分が法律になってますよね。
だから裁判しても判事とは話が噛み合わない(笑)どうやったら論破できるのかって、かなり難しいかも。詭弁と言えば詭弁でもあるし。変な話、リアーデンは起業ではなく弁護士が向いてそうな。リアーデンからしたら判事こそ詭弁ですよね。
LUNA
2016/06/30 11:17

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